北海道を6回も歩いた旅人がいた
松浦武四郎は、それまでの「蝦夷地」に代わる名称の提案を、明治政府から依頼された人物だ。
江戸時代末期に生まれた武四郎は多彩な経歴を持つのだが、彼の輪郭をつくったのは旅。最初は16歳のときで、家に一通の手紙を残して旅に出発した。ただしこの家出に近い旅は、約3カ月で所在地が発覚。家人に連れ戻されて終わっている。現代なら、16歳で二輪免許を取得していきなり、日本一周ツーリングに旅立つようなもの。そりゃ、家人も心配する。
そんな武四郎は、17歳から本格的に旅をはじめ、各地を歩いて巡ると、26歳のときに、蝦夷地を探査して様子を伝えようと決意。28歳で初めて蝦夷地へ到達すると、以降13年間で6回も探査に訪れている。その際、武四郎はアイヌの人々と寝食をともにして、その文化を理解することにも力を注いできた。地元の暮らしを通じてその土地を知る。いかにも旅人らしい。
ちなみに武四郎は、初の蝦夷地旅で函館から太平洋側の海岸線をたどり知床岬まで、翌年には江差から日本海側を通って宗谷経由で知床岬まで冒険している。とはいえ、交通手段は徒歩。なので、バイクなら武四郎の足跡をたどるのは難しいことではない。例えば阿寒湖畔には、武四郎が著書に阿寒の豊かな自然について記したことに由来した松浦武四郎詩碑がある。
1869年、蝦夷地に詳しい者として政府の一員となっていた武四郎は、蝦夷地の新名称として、「北海道」のもとになった「北加伊道」を含む6案を提案した。
しかし翌年、武四郎は役人を辞めている。理由は、武四郎が理想としたアイヌの人々に配慮した開拓方針が、政府に受け入れられなかったため。そして武四郎は再び旅人に戻り、1888年に71 歳で亡くなるまで旅を続けた。70歳で富士山に登頂するほど……。
もちろん調査目的もあっただろうが、そんな150年前のガチ旅人が何度も足を運びたくなるほど、北海道は当時から魅力に溢れていた。そしていまも、自然の絶景ということではその多くがそのままのカタチで残されている。さあ今年から、武四郎並みに何度も北海道を旅しようではないか!